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右手にトーチ 左手に期待値を

土木の現場監督を辞めて溶接職人の道を目指した理由

今でこそ、溶接の仕事で生計を立てている私ですが、前職は土木の現場監督でした。

18歳~23歳の多感な時期を現場監督時代で明け暮れ、その後ひょんなことから溶接職人の道を目指すこととなります。

40歳を過ぎた今なお、夢に出てくるあの頃の現場監督時代…。

 

今回は私の転職話です。

離職率が高い建設業

厚生労働省が2017年に発表した建設業における2012年3月の新卒就職後3年以内の離職率は高卒で約50.0%となっており、全産業平均の40.0%と比べるとやや高い。私が現場監督時代も毎年誰かは辞めていくという過酷さが、建設業には確かにあった。

【厚労省調査】 高卒者の建設業離職率は3年以内で47・7% | 建設メール | 見たもん勝ち | 建設資料館

 

『目の前に橋が無ければ造ってでも向こう岸にたどり着け!』

 

男社会が色濃い建設業界にとって、この言葉は非常に甘美で、数百人、数千人規模の現場では、毎日が息を付く暇が無いほどの激務だった。一見不可能に見える管理計画でも、多くの人の協力の元、日々、形を成していく構造物を目の当たりに経験すると、人がやってやれないことはないと確信できる。それは私にとって、かけがえの資産となり原点である。

「地図に残る仕事」の名に恥じない、誇りを持てる仕事だった。

一方、その激務において、個人における状況は置き去りにされる事が多く、陰で涙を飲む先輩上司を多く見てきた。

 

転勤の弊害

季節感ゼロの人里離れたプレハブ寮生活。事務所まで徒歩二分。

上司や先輩達と寮生活の日々を過ごす中で、単身赴任で小さいお子さん達と毎日会えないことの寂しさや切なさを見てきた。ご家族を連れて近くのアパートを借りて通勤する先輩もいたが、見知らぬ土地での戸惑いや子供の転校が増えるなどで小学生になったら難しいだろうなとつぶやいてるのを聞くと、非常に切ない気持ちに…。

当時の現場の敷地内に広い公園があり、休日に家族連れで賑わっているのを遠くから眺めて、「自分に家族が出来てもああいうふうに過ごせないのか…」といつしか考えるようになっていた。  

 

青森県に転勤してからしばらくたったある日、新規現場の書類作成の応援で、仙台本社に呼び出された時の事。

一週間ほどで仕事が片付き翌日から連休の予定。青森の所長に電話で「予定通り月曜日から出勤出来ます」と報告すると、

 

『ああ、忙しくなってきたから明日から出てくれや。ガチャッ』

 

「・・・」

 

時刻は金曜の夜19時。

 

仙台から青森の宿舎まで高速を使っても約5時間ほど。

 

個の事情などお構いなしの、一方的な命令だった。

まだ結婚もしてなければ彼女もいない時期だったが、本気で転職を考え始めたのはこの頃からだった。

 

将来性の悲観

もう一つ転職を考えた理由に、現場監督というのは非常に曖昧な立場で、上下からの板挟みで煮え切らない思いをしたことが多々あった。しかしそれ以上に、万が一、会社が倒産して身一つになった場合、私に何が残るだろう?と考えると、土木施工管理二級の他にいくつかの資格と現場経験の二つだった。それならば将来は手に職を付けた方が、万が一の事が起きても食いっぱぐれは無いだろう、ぐらいの気持ちで、「転職するなら27歳までに三回まで」と線を引き、少しずつ次への転職を模索し始めることになる。

 

師匠との出会い

元々、溶接に興味を持っていたとはいえ、すぐにそちらの道に進むわけにもいかず、数か月が過ぎていた。

しかし、ここで私は人生を大きく変える出会いを果たすこととなる。

 

青森県の現場。

 

師匠は鍛冶工の職長、私は現場監督という立場だった。当時の印象は、口数が多くも 明るく楽しいオヤジ だったが、それだけではなく、職人達の中では群を抜いて技術が伴った数少ない職人の一人だった。

 

その仕事ぶりにすっかり惚れ込んだ私は、この人の下でなら自分の目指すものが見つかるかもしれない と確信した。

 

数週間後、師匠達が現場を離れる際に、今年いっぱい考えて、それでも溶接の仕事をしたいという考えが変わらなければ、現場監督を辞めて師匠の元で働きたいといった旨を伝えた。

 

師匠の職業は製缶。

住所は八戸。

 

溶接が出来れば職種は問わなかったし、師匠が住んでいるからという理由で八戸にするつもりだった。

年収は約350万円から日給9000円(国民年金、国民保険)に。

 

本当にいいのか?

と、何度も聞かれた。

 

自分にも何百回と問いかけた。

やりたいことと、やるべきことが目の前に広がっているのに、ここで手を伸ばさないのは一生後悔する。

それからの約10ヶ月間、仕事では積極的な資格取得、昼休みは溶接の練習、休日は師匠のいる八戸の下調べなどであっという間に過ぎていった。

 

住む場所も決まり、愛車を手放してローンを完済。

建設会社を辞める際、所長に思い止まるように言われたのは以外だったが、この頃には全ての準備が整っていた。

 

~閑話休題~

こうして、私は現場監督を退職し、慣れない街で初めての一人暮らしを始めました。振り返ってみると、まさに裸一貫からのスタート。

 

現場監督とは、やりがいがあり誇りの持てる素晴らしい職業だと思います。多くの人の手が加わり形となった構造物が、多くの人の役に立つ。

しかし、いかに素晴らしい職業とはいえ、 自分と家族を犠牲にしてまで続ける価値はあるのか? 考えれば考えるほど、転勤がどうしても受け入れ続けるのが無理でした。

 

あれからもうすぐ20年。

 

師匠のおかげもあり、今では手に職をつけることが叶いました。明かりが点いてる家に帰り、息子と風呂に入り、寝顔を見つめることの出来る、ささやかな日常を送っています。

 

なので、現場監督を辞めたことを後悔したことは一度もありません。